In My Head

思考を整理するために書いてます

まずは量ってこと

先日ポストしたオンラインの英語コーチンセミナーの話

 

結論としては、申し込みは見送ろうと思う。このセミナー自体は非常に有用なものなのだろうと推察する。しかし、現役高校生である娘に受講させるのは、違う気がする。

 

これは、55万円を自分の稼ぎで支払えて、かつ普段仕事や家事育児で物理的に勉強する時間が取れない、そして記憶力も衰えてきている大人にはとても良いコンテンツだと思う。

 

しかし、娘は部活もしていない学生である。勉強する時間などいくらでもある。「短時間で」「効率良く」結果を出す必要などないのである。有り余る時間を思う存分英語の勉強に充てれば良い。

 

私が引っかかったのは、これが英語の教材ではなく「コーチング」の教材であることだ。つまり、英語ではなく英語の勉強の仕方を教えるのである。それを自分で見つけることが「勉強」なのではないか?

時間がたっぷりあるのに、覚え方や学習の進め方を人から教わろうとしている時点で大したモチベーションではない。

 

この手のサービスに惹かれるのは「1人ではモチベーションが保てないから、誰か尻を叩いてくれる人がほしい」という心理が働いているのではないか?そのために50万以上の大金をはたいて、果たして結果が出るのだろうか?

 

また、今語学を勉強している友人にどのように勉強しているか聞いたところ、娘が心酔しているそのYouTuberの無料動画もよく見ているそうだ。とても参考になる良い動画だと絶賛していた。

 

しかし件の話をすると、「内容は間違いないと思うけど、半年でそれに55万かけるぐらいなら海外に1人で行ってみるとか、月1万円の受け放題オンライン英会話を毎日5年間続けた方が英会話の力は身につくと思うなぁ」と言われた。

 

娘は「早く」マスターする方法を探しているのだろう。このセミナーの謳い文句はそんな人にとってはとても魅力的だ。しかし、これを英語から(私が習っている)ギターに言い換えてみるとどうだろう。

 

「短時間で効率良く、半年でギターがうまく弾けるようになる方法を教えます!」

 

鼻白んでしまわないだろうか。

この場合、「効率良く」というのは「いかに少ない練習時間で」と言い換えることもできる。

しかし、練習時間が少なければ絶対にギターはうまくならない。ギターを触る時間と腕前は比例する。それは揺るがない。

 

早くうまくなりたければ、たくさん練習するしかない。普通の人が1日1時間練習するとして、1日10時間練習すれば、普通の人の10分の1の期間でギターがうまくなる。結局量なのである。そしてきちんと考えながら練習していれば、量をこなすうちに質や効率も自ずと備わってゆく。それが「勉強」というものだ。

 

私はギター講師から「問題解決力が高い」と褒められたことがある。それは間違いなく受験勉強や部活で培った能力なのだと思う。

うまくいかない時、自分の何がいけないのか原因を探る。それがわかったらどうすればできるようになるのか、いろんな方法を試す。自分に合うやり方が見つかったらできるまでひたすら反復練習。この繰り返しだ。

 

娘が受講したがっているそのセミナーは、この3ステップのうち、1と2のステップをすっ飛ばして3の「正しい方法」教えてくれるのだろう。しかし、1と2のステップこそが勉強なのではないか。そしてそれを面倒だとか時間の無駄だとか思う人は、あまりにも受け身すぎて、おそらく勉強には向いていない。

 

勉強のやり方の正解は人によって違うもの。そのカリスマYouTuberができることが他の人もできるとは限らないし、合っているかどうかもわからない。正解は自分の中にしかないし、それは教わるものではなく自分で見つけるものだ。

 

それでも冒頭で書いたように、物理的に勉強時間が確保できない大人なら、そういうサービスを利用するのも手だろう。しかし、高校生の頃からこういうやり方を知ってしまうと、問題解決力のない大人になってしまう気がしてならない。

 

今、中学生レベルの英語ができないのは過去の自分が勉強をしてこなかったせいだ。つまり自己責任。それを親のお金の力で短期間で取り戻そうというのは、いささか虫の良すぎる話だ。

どうしても受講したいなら、大人になってから自分の稼ぎでやってくれ、と思う。

 

子の教育にお金を惜しむつもりはない。しかしこれは私の思う教育ではないと思った。だからやはり申し込むのはやめようと思う。

 

娘にどう伝えれば理解してもらえるかはわからないが、、大切なことなので誤解なきようしっかり伝えたい。

 

 

 

 

 

 

学ぶとは

少し前のこと

娘が高校卒業後に留学に行きたいと言い出した。

半年の留学で100万ほどの費用がかかるとのこと。

 

そのつもりでお金を工面しようとしたが、娘が留学サポートセンターに相談に行ったら、自分の望む形では勉強ができそうにないことを知り、断念。

 

センターの人に月1、2万ほどのオンライン英会話を勧められたので、自分に合いそうなサービスを探して卒業まで続け、その後英会話が活かせそうなリゾバをして資金を貯めてワーホリ等を利用して海外に行くという話になった。

 

そして今日

良さそうなオンライン講座を見つけたというので見てみると、何と費用が半年で55万円。

月換算すると10万近くになる。

 

正直まず金額に怯んでしまったが、色々と調べてみると、どうやら大人気の英語YouTuberが主催するセミナーらしい。

まだ20代でここ2、3年で設立した会社なのに年収は3.6億円。英語セミナーのほか、webマーケティングセミナーやコンサルも手がけていると知り、合点がいった。

 

彼はイマドキの商売人なのである。実に商売がうまい。実際、英語の解説も非常に丁寧でわかりやすく評判も良いようだ。英語力やコーチング能力は確かなのだろう。

 

彼のやり方は、YouTubeの無料配信で人の心を掴み、LINEのお友達登録をさせる。そして登録した人のみが参加できる無料(もしくは3000円ほど)のオンラインセミナーに誘導し、それを受けた人のみが半年55万円ほどの英語コーチンセミナーに申し込めるという流れだ。

クローズドな場で生徒との距離を確実に縮め、異様に高額な有料セミナーを確実に申し込ませるのである。彼のことを何も知らない私は正直なところ、その流れを見て「怪しすぎる」と感じた。

 

しかし上記の通り、ネットで検索しても評判はすこぶる良いのである。彼は顔すら晒していないのに、である。そのあたりがもう、商売人なのだ。

 

と同時に、私はイマドキの人間のビジネスのやり方や価値観にカルチャーショックを受けた。今はこういう時代なのだな、私の時代とはもう勉強の取り組み方も物事の考え方もまるで違う。

 

要は、学ぶのも稼ぐのもタイパ重視で「短時間で効率良く」が鉄則なのだ。いつでもどこでも気楽に気軽に、自分が望むものだけを学べる。興味のない授業も受けなければならない大学には通いたくない、娘もそういう考えなのだろう。

 

でも私のような人間は本当にそれで欲しいものが手に入るのだろうかと思ってしまう。なんか違うという違和感が拭いきれない。

 

彼が留学せずにバイリンガルになれたのは、彼が自分で自分に合う学習の仕方を見つけられたからなのではないかと私は思う。そしてその方法は人によって違う。

彼が試行錯誤の上に身につけたそのメソッドだけを学ぶのは確かに効率はいいが、勉強において最も大事なのは、メソッドという結果ではなく試行錯誤するその過程なのではないか。

 

一見無駄に思える「調べる」「考える」という過程で人は知りたいと思うもの以上のものを得ている気がしてならない。

わからないことをすぐに質問できるのはとても良い環境だが、その前に自分で辞書を引いたり参考書を調べたりすることもまた重要なのだと思う。

 

娘の学校は学業に力を入れていないため、中学レベルの英語をしていると娘は笑っていたが、じゃあそのレベルの英語の成績はどうなのかというと、60点ぐらいしか取れていない。それなのに学校の英語は役に立たないと言わんばかりに少し馬鹿にしている。

 

自分が英語ができないのは、学校でまともな授業を受けられないからだと思ってはいないか?

そうではない、それ以前に中学生の頃からの自主勉強の方法に問題があるのでは?だから中学レベルの英語も満足に理解できていない。

 

進学校に通い、がっつり受験勉強をした私から見ると、娘は勉強の方法というものを知らないように思える。わかりやすく教えてくれる誰かがいてサポートしてくれたら学力が身につくと思っているのではないかと。

 

でも、効率良く学ぶことなんてできるのだろうか。勉強という行為そのものがそもそも非効率的なもののような気もする。勉強とは物事を理解し、記憶を定着させることであり、理解するにも定着させるにも根気がいる。

 

物事をきちんと理解するためには様々な分野の知識が必要であり、理解したことを脳内に記憶させるためにはある程度の反復学習も必要だ。勉強の方法がアナログからデジタルに移行したとて、人間の脳の構造は変わらないのだから。

そこをすっ飛ばして結果だけを求めても、本質的なところで英語を理解するのは難しいように思える。

 

娘が心酔しているそのYouTuberに関しては、優秀な人だと感心する面もあるが、こうやって人の心理をついてうまいこと商売してるなぁという、いささか冷ややかな目で見てしまう自分もいる。そういう認識だとこれからの時代にはついていけないのかもしれないが。

 

何というか突然訪問販売で100万円の英語教材を買わされそうになったような気分なのだ。

 

正直言って、彼のセミナーを半年間受けても娘が期待しているように英語ペラペラになれるとは思えない。英語への理解は今より深まるとは思うけど、おそらくそこ止まりだろう。

 

もっと言うと、英語だけ勉強すれば英語ができるようになるわけでは決してないことも付け加えておきたい。英語を学ぶためには国語の能力も必須であり、英語圏の歴史文化、地理、宗教の知識も必要なのだ。知識は独立した物ではなく、様々な分野の情報が複雑に絡み合って成り立っているのだから。

 

とはいえ、娘の向学心を応援したい気持ちもあるので、非常に迷っている。ひとまず、彼のYouTube動画を見てみようと思う。話はそれからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己肯定感を高める方法

自己肯定感が低いという話をよく聞く。

精神疾患を患ってる人は特に多いのではないだろうか。私も昔うつ病だった頃は主治医にそう言われていたが、今は全くそんなことはない。

 

自己肯定感を高めるのは実はそんなに難しいことではない。今すぐに自分の自己評価を下げれば良いのだ。

 

自己肯定感が低い人は自己評価も低いと思われがちだが、実は逆である。自己評価が高すぎる場合がとても多い。

 

つまり「本来の自分(元気だった頃の自分)」を基準にして自己評価しているから、今の何もできない自分は最低だと思っている。これでは自己肯定感なんて芽生えるはずもない。

 

でも今の何もできない自分を基準にしたらどうだろう。少しでも何かできただけで自己肯定感は高まっていく。

減点方式ではなく加点方式で自己評価していくのである。

 

ただし、そのためには何もできない今の自分を認める必要がある。「こんなの本来の自分じゃない!」なんて思っていてはダメ。今の自分が本来の自分なのだから。

 

私は自分のことを今でもダメ人間だと思っている。うつ病の頃の何もできなかった自分を本来の自分だと思っている。

だから今、人並みの生活をしてまじめに働いているだけでもう自己肯定感爆上がり、100点満点なのだ。仕事でミスをしようが忘れ物をしようが関係ない。ミスで多少減点されたとしてもまぁ90点ぐらいかな。

 

職場の部下に対しても同じことを思っている。シフトを守って無遅刻無欠勤で働いてくれる、退職しないでいてくれることがその人の評価基準であり、ミスをするのしないのというのはオプションに過ぎない。そもそもそんな完璧な人求めてない。

人はミスをするものだと思っているので、ミスをしないことよりミスした後にちゃんと報告や相談をしてくれて、きちんと対処できればそれでいいと思っている。

 

適切な自己評価をしていれば、自己肯定感は他者からの評価には左右されない。ダメ人間だと認めることができれば、ダメダメな日があってもそれが普通なので減点なんてする必要ないし、ちょっとだけ何かできただけで自分を素直に褒めてあげられる。別に急激に自分が大きく成長する必要もない。

 

とっても簡単で、おすすめの方法である。

 

今が一番幸せ

「何でもないようなことが 幸せだったと思う 何でもない夜のこと 二度とは戻れない夜」

 

かつて大流行した曲のサビの歌詞である。

この曲自体はちょっと辛気臭くて好きではなかったけれど、歌っている内容は真実だ。

 

病気にならないと健康のありがたみを感じられないのが世の常。

でも最近私は、ごく平凡な今の暮らしがとても幸せだと実感できている。

 

多分今が一番幸せ。昨日はうれしいことが続き、うれしすぎて泣けてきて、こんなに幸せでいいのかと思ったほどだった。

 

こんなふうに思える日が来るなんて、20代の頃は思いもしなかったなぁ。生きづらさを抱え、自信もなく焦ってばかりいた若かりし日。今思えば、まだ子どもだったのだと思う。

 

自分をひとりの大人として認められるようになったのはここ数年のこと。大人って楽しい。

 

同じような毎日を繰り返すだけだとつまらなくなってしまうけれど、時々自ら動いてみる。ほんの少し、いつもと違うことをしてみるだけで、幸福度は爆上がりする。

 

たまには自分のためにいいものを買ってみるとか、子どもとおいしいスイーツを食べに行くとか。そんな小さなことで、あぁ今私は幸せだと実感できる。

 

明日もいい日にしよう。仕事がんばって、いい気分で週末を迎えよう。

家族にどこまで合わせるか

主婦は、常に誰かに合わせて生きている。仕事はもちろんのこと、自宅でも夫や子どもの都合に合わせて動く。

夫の帰宅時間、子どもの習いごとなどによってタイムスケジュールが決まる。そうやって決めていても、家族の体調不良や突発的な用事などによりそれが総崩れになることもある。

 

我が家の場合、仕事から帰宅して夕食を作り始める17時から息子が寝る20時半までが私の戦場だ。夫は息子の遊び相手以外の家事育児は本当に何もしないし、夫の要望で21時以降に音の出ること(洗濯機を回したり乾燥機をつけたり洗い物をする、私の入浴など)はできないので、私はこの3時間半の間にやるべきことが山ほどあるのだ。

 

今でこそこういう生活にも慣れたけど、いくら慣れても疲れるものは疲れる。だってそれは本来の自分のペースではないから。そして、どんなに自分が家族に合わせても、家族が自分の都合やペースに合わせてくれることはほとんどないから。それが時々、虚しくなるのである。

 

なので私はどこまで家族に合わせるべきかボーダーラインを引いている。それは、基本的に家族の「都合」には合わせるが、自分がキャパオーバーな時は家族の「気分」には合わせないということだ。

人の気分に合わせるのには限界がある。家族といえども個々の気分までは把握できないし、予想もつかないのにその後のタイムスケジュールを組み直すのは難しいのだ。何しろやることはたくさんあって、期限も決まっているのだから。

こうして明確なボーダーラインを設けることで、私は気ままに振る舞う家族にヤキモキしたり「このままじゃ時間内に終わらない」と焦ったりすることがなくなった。

それに、20時半までは本当に忙しいけれど、ゲーム感覚でひとつひとつクリアしていけば案外楽しいものだ。

 

ゲームといえば、私の人生のラスボスは夫だと思っている。夫を攻略するにはどうすればいいか、いつも考えている。彼は多分、普通に見たらモラハラ夫なんだと思う。妻が気が弱い人だったらメンタルをやられる可能性もある。

だけど夫がモラハラ夫になるか否かは妻である私の捉え方にかかっている。私は夫から何を言われても何をされても、今ではほぼ聞き流す。決してムキになって反論はしないし、かと言って傷つくこともない。

 

ただ自分がそれをどう捉えたらストレスを感じることなく楽しく生きることができるかを考える。

速い球を投げつけられた時に、無理に打ち返そうとするよりも低反発枕のようにしなやかに受け止めて沈み込み、再び元の形に戻る方がより最強なんじゃないかと思うのだ。そういう対抗の仕方があってもいいと思えるようになった。 

 

でも私はラスボスを倒すのを目標としているわけではない。できればポケモンのように、最後には最強の仲間になれたらいいなと思っている。夫はどう思っているのか知らないが、私はせっかく縁あって結婚したのだから夫婦の関係に希望はいつまでも持ち続けていたい。

まぁ万が一別居しましょうという話になったとしても、1人で生きていく生活スキルと経済力はあるので不安はないけれど。

 

自由とは、勝手気ままに振る舞うことではない。外的な物事に心を乱されず、どんな時も自分らしくいられること、つまり心の体幹を持つことだと思う。それさえあれば、多少の時間的・環境的な制約があろうとも窮屈な気はしない。

 

家事や育児に参加しない夫に不満が溜まって愚痴を吐きたくなる気持ちはよくわかる。不満が溜まるのは夫に期待しているからだ。期待ができるぶん、まだ伸び代はあるのかもしれない。

けれど私はもう期待するのはやめ、次のステップに進んだ。この難関不落の夫にアプローチするために自分をどこまで変えられるか。環境に合わせて自分を変えるのは人としての成長であり進化である。自分が成長できるのはとても喜ばしいことではないか。

 

体力的精神的に無理のない範囲内でどれぐらい進化していけるか、私は変わっていく自分に期待しているし、楽しみなのだ。

足るを知る

私には欲があまりないんだろうなと最近思う。好きなものもたくさん欲しいとは思わない。少しで十分満足だ。それが普通だと思っていたが、世の中には欲しいと思ったものは全て手に入れたいという人もたくさんいるんだなと驚いている。

 

私の母はとても厳しい人だった。幼い頃から欲しいと思ったものを買ってもらえる環境ではなかったし、お小遣いも少なかった。だから親に何かをねだったことも数えるほどしかないし、そもそも何かを欲しいと思わなくなったのだと思う。

 

今年、私が大好きなアーティストのツアーがあり、私はチケット販売のかなり初期の段階で希望するチケットを手にすることができた。今までは1ツアーで1公演行けば満足だったが、今回は2公演行くことにした。基本的に地元公演はないので遠征になるわけで、複数公演行くことは、私にとってはかなりの贅沢。欲張った方だ。

 

しかし、SNSを見ると熱狂的なファンが多く、10公演以上参加する人もかなりの数いる。もちろんそういう人はごく一部なのかもしれないが、たくさん行って当たり前という認識を持っている人の多さに驚いた。今流行りの推し活とはこういうことなのだろうと思う。

 

でも、多数の公演のチケットを手に入れるにはかなりの労力を必要とする。FCや各プレイガイド、プロモーターなどの情報をチェックして都度申し込まなければならないし、抽選に漏れると直前販売、機材解放、ゲリラ販売、チケトレなどギリギリまで粘るのである。

それに加えて宿や交通手段の予約も。かかる費用も相当なものだが、それ以上に予約や会場までのアクセスの確認、仕事の調整等の手間ひまを考えると私にとっては絶望に値するレベルである。それを持ってしてでもたくさん会場に足を運ばないと気が済まないのだから、気持ちの強さたるや…

 

私はたとえ時間とお金に余裕があっても、そんなことはしないしできない。人混みが苦手だし、チケットが取れるかどうかで数ヶ月もヤキモキするなんてとても耐えられないからだ。自分の心身の限界は自分が一番よくわかっている。そしてそもそもそんなにたくさん行きたいと思わない。

 

こんなに欲がないことは、わりと幸せなことだと思っている。私のように2公演で満足する人間は、2枚当たれば天にも昇るような気持ちになれるが、10公演行かないと満足できない人が2枚当たっても、2公演「しか」行けないという認識になる。コップの水と同じ原理だ。

 

私は2公演を希望して、行きたい公演のチケットを最速で手に入れることができた。1公演はすでに終了したが、何と最前列だった。これ以上の幸せがあるだろうか。もう十分である。実は別のアーティストでも半年前に最前列ど真ん中という経験をしている。ただの偶然なのか、欲をかかないから神様が一球入魂でいい席を用意してくれているのかはわからないが。

 

幸せのハードルが低ければ低いほど、人生の幸福度は増すものだと思っている。「足るを知る」とか「身の丈」という言葉があるが、私のような小さな人間は日常の些細なことに喜びを感じ、身の丈以上のことは望まない方が幸せを感じやすい人間になれる気がする。

仕事と育児、どっちを選ぶ?

情熱大陸」の永山祐子さんの回を見た。

日本で今最も忙しい建築家の1人で、お子さんもいらっしゃる。多忙を極めるため育児はお母様にサポートしてもらっているそうだ。

子どもができたとき、仕事を辞めようとも思ったけど、お母様に「サポートするから仕事続けなよ」と背中を押されたとのことだった。

 

自宅での撮影で、お子さんに「でもママいつも家にいないじゃん」と言われるシーンがあった。もしかしたら、永山さんはチクリと胸が痛んだかもしれないな、と思った。

それを持ってしても彼女が仕事に邁進するのは、親が本当にやりたいことをやり続ける姿を子どもに見せたいからだと言っていた。子どもに自分の未来は、大人になるのはつまらないと思ってほしくないから。すごいなと思った。永山さんは強い人だ。

 

一方私はどうだろうと考えると、永山さんとは逆で、仕事より育児を優先させるために転職した。ただ、仕事を犠牲にしたという感覚は全くなく、出産を経て仕事最優先だった私の価値観が大きく変わったので、自然ななりゆきだと思っている。

 

あと、何より子どもとの時間を減らしてまで仕事に打ち込むほどの情熱が、私にはなかった。

結果、全く興味のなかった今の仕事もそれなりに楽しくやりがいもあり、尚且つ時間的な余裕ができて育児にも自分自身にも時間を割けるようになり、私にとっては最善の選択だったと感じている。

 

子どもは日々成長していく。後で後悔しても、もう過去の日々は取り戻せない。しかし、仕事もまた然り。今しかできないことも確実にある。一番元気で体が動く30代に、どちらかを選べというのは酷なことだろう。

どちらも完璧にやろうとして潰れてしまうより、どっちかに振り切って頼れるものには全て頼って自分が幸せでいられる道を選ぶ方がいいのかもしれない。永山さんはチクリとした痛みを感じながらも前に進むのをやめない。それはそれでとてもかっこいいと思った。私にはできないことだから。

 

いろんな生き方があっていい。

いろんな生き方、いろんな価値観を知れるのがドキュメンタリーのいいところ。

またひとつ、それを知れて良かった。