In My Head

思考を整理するために書いてます

神頼み

ここ3週間ほど、精神状態が良くない。家族間で問題が生じたからだ。現在も解決の見通しは立っておらず、先行きが気になるところではあるが、頭を掻きむしりたくなるような気分はやや落ち着いた。

 

今日銀行まわりをしていて、近所の神社の前を通りかかった。普段はお正月やお祭りの時しか行かないのだが、気がつけば引き寄せられるように私は鳥居をくぐっていた。

 

平日の神社はひときわ静かで、大通りに面しているというのに空気が違う。手水鉢で清め、御神木を眺め、絵馬を眺め、お詣りをした。こんな時に神頼みしかできない自分はなんと小さい人間なんだろうか。

 

それにしても、少ないとはいえ定期的にふらりと参拝者が訪れるのには少々驚いた。みんな長いこと手を合わせている。私と同じで、何か具体的な願い事があるのかもしれない。

 

そんなことを思いつつ神社を後にし、帰宅すると涙が出てきた。あぁ、私は何かに頼りたかったのだと気づいた。問題をきちんと話し合える人がほしかった。夫は私とはきちんと話してくれない。

問題の最終判断をするのは夫だが、夫の考えがよくわからないからやきもきしてしまう。

 

かと言って今は、口に出すとどっと疲れそうで、小康状態を保っている。私1人がどうにかできる問題でもない。

 

これからは、ちょくちょくお詣りをしようと思う。こんなに近くに神社があるのだから。何もなくても神社の凛とした空気に触れると、少しリフレッシュできるから。

娯楽から学ぶこと

夜、全ての仕事や家事が終わり、子どもも床に就いて1人で過ごせる時間がいちばん好きかも知れない。

 

洗濯物を畳み終えたらお湯を沸かし、緑茶か紅茶を淹れる。そして、録画していた番組を見たり、時々本を読んだり。

子どもたちが起きている時間帯は、テレビは子どもに占拠されてしまう。朝晩のニュースさえろくに見れない。

 

だから見たい番組は片っ端から録画して、夜見る。見るのはドラマかドキュメンタリー、音楽番組だ。今クールのドラマはアタリ。面白いものが多くて6本も録画しているから、消化するのが大変。

ドキュメンタリーは「情熱大陸」と「ドキュランドにようこそ」。音楽番組は「クラシックTV」と「Mステ」と「関ジャム」を毎週録画しているけど、興味がない回は見ない。

 

ドラマやドキュメンタリー、小説や映画が好きなのは、多分いろんな人の生きざまを知ることができるからなんだと思う。昔は現実逃避のために見ている節もあったけど、今は違う。

私は、私が経験できないことを経験している人の生き方を知りたいのだ。それがノンフィクションかフィクションかは問題ではない。

 

職場にはいろんな人がいる。家庭環境も違うし価値観も違う。私はそういう人たちを束ねる立場にある。働いている時は皆うちのスタッフだけど、職場を出たら各々が誰かの母親であり妻であり娘なのだ。現場での姿だけではなく、一人ひとりが背負っているものを想像できなければ、働きやすい環境を提供することはできない。

 

私の価値観はこれまで自分が体験してきた範囲内で培われたものだ。そんなちっぽけな視点で人を理解することなんてできない。だから。私はドラマやドキュメンタリーや映画を見、小説を読んで、自分が経験し得ないことを疑似体験し、自分とは違う価値観を知りたいと思う。

 

知ったところで、全ての希望を叶えられるわけではないけれど、少しでも融通を効かせることはできる。寛容な心を持てる。

 

コロナ禍、職場が大変な状況に陥ったことが何度かあった。スタッフには苦労をかけたし、不満の声だって耳に入ってきた。でも、みんなで乗り越えた。忙しいから、大変だからという理由で辞める人は1人もいなかった。そして今もうちに勤めてくれている。それは、私たちの取り組みが間違ってなかったからだと思っている。

コロナを通じて、私はスタッフ一人ひとりの背景を理解することの重要性を実感した。有事の時ほど私たちは大きな心を持たなくてはならない。独断と偏見に満ちた経営陣の価値観を一方的に押しつけられるような職場環境で、スタッフ同士が和気藹々と働けるわけがない。

 

私は、寛容で優しい人間になりたい。そのためには自分以外の視点を自分の中に取り入れることが必要だ。だから私は飽きもせずテレビを見る。小説を読む。くだらない娯楽だと見下す人もいるかもしれないけど、私にとってそれらは学びの宝庫なのだ。

「夏物語」

初めて川上未映子さんの小説を読んだ。

「夏物語」

 

序盤は延々と続く大阪弁、進まないストーリーに疲れてしまって苦手なタイプかもしれないと思ったりもしたけど、読み終えてみるとガツンとくる骨太な小説だった。

 

川上さんの作品はどれもこんな感じなのかどうかはわからないが、少なくとも「夏物語」に関してはストーリーというより「◯◯とはどういうことなのか」といった、物事の観念みたいなものを主人公が必死に考え、答えを見つけ出そうとする過程を描いているように思えた。

 

その過程が本作のキモなので、一節だけを取り出してああだこうだいうのは野暮だと思うのだが、私自身がぼんやりと感じていたことが気持ちいいぐらい明快に書いてあったので、備忘録として残しておくことにする。

 

 

“男ってさ、冷蔵庫とかドアとかレンジとかスイッチ切るのとか何でもいいけど、ものすごい音たてるでしょ、あほみたいに。手ぎわも悪いし、基本、生活のことはろくにできないし。自分の生活が変わらない範囲でしか家のことも子どものこともやらないくせに、外では理解のある夫だか父親だかって、でかい顔してうっとりしてんの。あほかと。んで、突っ込まれるのに慣れてないから、何かひとこと言うだけで機嫌が悪くなって、そして自分の悪くなった機嫌は誰かが直すもんだと思ってる。

(中略)

こうやってならべていったらさ、あほみたいに細かいことにこだわってるように聞こえるかもしれないけどさ、でも違うんだよ。他人との生活っていうのは、良くも悪くもお互いがそれぞれ作ってきたディテールが衝突する過程だけで成りたっていて、その緩衝材としてつねに信頼ってものが必要になるんだよ。あとは恋愛で頭がおかしくなってるとかね。どっちもなくなったら、嫌悪しか残らないの。”

       川上未映子著「夏物語」から引用

 

 

もちろん、男が皆そうだとは思わない。

だがしかし、この一説に首がもげそうなほど頷きたくなる女性があまたいるであろうことは想像がつく。かくいう私も同じくである。

 

相手を客観的に観察してみると、その人がどのような思考回路を辿って行動しているかがわかってくる。私の夫の場合、それが上記の引用そのままなのだ。笑ってしまうぐらいに。

 

夫は相当な変わり者だと思っていたが、何のことはない、頭の中はごく平凡な「あるある男」の典型だったとは。

 

それはさておき。

親子って何だろう。血の繋がりって何だろう。

本作を読む前から、何度となく考えてきた。私には実の子と、そうでない子がいる。やはり両者は自分にとって同じではない。娘にとって、実の母親と私が同じではないのと同じように。

 

遠慮なく親に甘えられるのも、遠慮なく子を叱れるのも、血が繋がっているからだ。血の繋がりとは無条件の信頼を意味するのだと思う。

娘と一緒に暮らし始めて10年経っても私たちには遠慮がある。もし、娘が生まれてすぐの頃から私が育てていれば違っただろうか?そんなふうに考えたことも数知れず。でも、たらればを考えたって現実は変わらない。

 

娘がこんな環境で暮らすことになったのは私のせいではなく夫や前妻のせいなのに、なぜか私が責められているような気がしてならなかった。その理由は、血なんだろうと思った。血の繋がりがある人のことは責めない。私は他人だから、排除しようとするんだろう。

 

血の繋がりがあるというだけで、無条件の信頼があるから。私にはそれがなく、だから時間をかけて作り上げていくしかないのだと、娘が反抗期になる頃悟った。

そして私は娘に小言を言わなくなった。実の子と同じように接するのをやめた。

信頼関係がないのに、実の子と同じノリで叱ってしまうと、心が離れていく一方だからだ。

 

娘も実の子も、現在進行形で迷いながら育てている。もっとこうすれば良かったかなと思うこともたくさんあるが、結局娘に私が伝えられることなどほとんどない。ただ身の回りの世話をして心配するだけ。

だけど、きっとそれは私だからできることなんだと思っている。こんな簡単なことなのに、夫も前妻もできなかった。だから私がいるのだ。

私は娘の母親ではなく、娘の両親が不完全であるがゆえにカバーできないことを補う、いわば両親のサポート役なんだと思う。

 

自分の出自は大事なのか?

自分自身の経験を通して考えると、やはり大事だと思わざるを得ない。長く一緒に暮らしていると、情も湧くし家族にはなれる。が、親子にはなかなかなれない気がしている。

親の私も「叱ったら嫌われるんじゃないか」と思ってしまうし娘も実の親のように甘えることはできない。互いに遠慮がある。

いつか、そんなめんどくさい感情を取っ払って、思いきり気持ちをぶつけ合える日がくればいいなぁと思ってはいるけれど、ね。