初めて川上未映子さんの小説を読んだ。
「夏物語」
序盤は延々と続く大阪弁、進まないストーリーに疲れてしまって苦手なタイプかもしれないと思ったりもしたけど、読み終えてみるとガツンとくる骨太な小説だった。
川上さんの作品はどれもこんな感じなのかどうかはわからないが、少なくとも「夏物語」に関してはストーリーというより「◯◯とはどういうことなのか」といった、物事の観念みたいなものを主人公が必死に考え、答えを見つけ出そうとする過程を描いているように思えた。
その過程が本作のキモなので、一節だけを取り出してああだこうだいうのは野暮だと思うのだが、私自身がぼんやりと感じていたことが気持ちいいぐらい明快に書いてあったので、備忘録として残しておくことにする。
“男ってさ、冷蔵庫とかドアとかレンジとかスイッチ切るのとか何でもいいけど、ものすごい音たてるでしょ、あほみたいに。手ぎわも悪いし、基本、生活のことはろくにできないし。自分の生活が変わらない範囲でしか家のことも子どものこともやらないくせに、外では理解のある夫だか父親だかって、でかい顔してうっとりしてんの。あほかと。んで、突っ込まれるのに慣れてないから、何かひとこと言うだけで機嫌が悪くなって、そして自分の悪くなった機嫌は誰かが直すもんだと思ってる。
(中略)
こうやってならべていったらさ、あほみたいに細かいことにこだわってるように聞こえるかもしれないけどさ、でも違うんだよ。他人との生活っていうのは、良くも悪くもお互いがそれぞれ作ってきたディテールが衝突する過程だけで成りたっていて、その緩衝材としてつねに信頼ってものが必要になるんだよ。あとは恋愛で頭がおかしくなってるとかね。どっちもなくなったら、嫌悪しか残らないの。”
川上未映子著「夏物語」から引用
もちろん、男が皆そうだとは思わない。
だがしかし、この一説に首がもげそうなほど頷きたくなる女性があまたいるであろうことは想像がつく。かくいう私も同じくである。
相手を客観的に観察してみると、その人がどのような思考回路を辿って行動しているかがわかってくる。私の夫の場合、それが上記の引用そのままなのだ。笑ってしまうぐらいに。
夫は相当な変わり者だと思っていたが、何のことはない、頭の中はごく平凡な「あるある男」の典型だったとは。
それはさておき。
親子って何だろう。血の繋がりって何だろう。
本作を読む前から、何度となく考えてきた。私には実の子と、そうでない子がいる。やはり両者は自分にとって同じではない。娘にとって、実の母親と私が同じではないのと同じように。
遠慮なく親に甘えられるのも、遠慮なく子を叱れるのも、血が繋がっているからだ。血の繋がりとは無条件の信頼を意味するのだと思う。
娘と一緒に暮らし始めて10年経っても私たちには遠慮がある。もし、娘が生まれてすぐの頃から私が育てていれば違っただろうか?そんなふうに考えたことも数知れず。でも、たらればを考えたって現実は変わらない。
娘がこんな環境で暮らすことになったのは私のせいではなく夫や前妻のせいなのに、なぜか私が責められているような気がしてならなかった。その理由は、血なんだろうと思った。血の繋がりがある人のことは責めない。私は他人だから、排除しようとするんだろう。
血の繋がりがあるというだけで、無条件の信頼があるから。私にはそれがなく、だから時間をかけて作り上げていくしかないのだと、娘が反抗期になる頃悟った。
そして私は娘に小言を言わなくなった。実の子と同じように接するのをやめた。
信頼関係がないのに、実の子と同じノリで叱ってしまうと、心が離れていく一方だからだ。
娘も実の子も、現在進行形で迷いながら育てている。もっとこうすれば良かったかなと思うこともたくさんあるが、結局娘に私が伝えられることなどほとんどない。ただ身の回りの世話をして心配するだけ。
だけど、きっとそれは私だからできることなんだと思っている。こんな簡単なことなのに、夫も前妻もできなかった。だから私がいるのだ。
私は娘の母親ではなく、娘の両親が不完全であるがゆえにカバーできないことを補う、いわば両親のサポート役なんだと思う。
自分の出自は大事なのか?
自分自身の経験を通して考えると、やはり大事だと思わざるを得ない。長く一緒に暮らしていると、情も湧くし家族にはなれる。が、親子にはなかなかなれない気がしている。
親の私も「叱ったら嫌われるんじゃないか」と思ってしまうし娘も実の親のように甘えることはできない。互いに遠慮がある。
いつか、そんなめんどくさい感情を取っ払って、思いきり気持ちをぶつけ合える日がくればいいなぁと思ってはいるけれど、ね。